一 廻廊ノ甘誘 《一》
その日は薄紅色の桜が舞い散るよく晴れた青い春の日だった。
明治四十四年 四月 東京 陸軍衛戍監獄《えいじゅかんごく》
この監獄にはある噂がある。 立ち入りを禁止されている東棟の最奥には大層恐ろしい化物が収監されているというものだ。 まあ「監獄に禁忌の間がある」なんて、変な噂が広まらない方がおかしな話だし、みんな冗談半分だった。だから僕も聞き流してたんだが、どうやらただの噂でもなかったようだ。
僕はここで看守をやっているごく一般的な若者だ。看守という仕事柄、非日常な物事に関わる機会は多いがそれはあくまで周りがおかしいのであって僕自体はその他大勢の人間と何ら変わらない。あとは少々出自が特殊なことくらいか。
まあそのことを不満に思ったことがないとは言えないが、過ぎた力は身を滅ぼすし、厄介事に巻き込まれないためにも身の程を知った生き方というのは大切だ。僕は元来事なかれ主義なのだ。この普通で平和な人生にケチをつけるほど驕ってもいない。僕は自分の人生にある程度の満足感を感じていた。
そんな僕の日常は突然終わりを迎えた。看守長が見るからに裕福そうな恰幅の良い男と並んで歩いているのを見つけたのだ。まあこの監獄は衛戍監獄というその特質上、お偉いさんが訪問に来ることも稀にあるので特におかしなことではなかったのだが、その場所が非常だった。立入禁止の東棟から出てきていたのだ。噂を真に受けていたわけでは無いが、だからと言って気にならないということでも無い。僕は一時の好奇心に身を任せ、二人の会話を窺うことにした。 盗み聞いた会話のほとんどは僕にはよくわからない話だったが一つだけ興味を引くものがあった。
「……しかし、化物とはよく言ったものだ。」
「ええ、たしかに『アレ』は化物と言っても差し支えない容貌だ。」
「バカを言うな、『アレ』の真の恐ろしさはそのおどろおどろしい外見ではない。中身の方にある。なんのためにここに収監してまで生かしていると思っているんだ。」
そこから先はまたよくわからない話だった。僕にわかったのは、『アレ』というのは東棟に居る化物を指しているのだろうということだけだ。噂は真実だったのだ。僕の足は気づけば東棟の方に向かっていた。
カツーン……カツーン……
高い天井を囲むように左右に並ぶ房の扉たち。頭上では細長い鉄製の棒が、アーチ状に交差し連なっている。そのさらに上には天窓が並んでおり、まだ太陽も真上にあるはずだが、空間全体がどこか薄暗く、人の気配はどこにもない。長らく使われていないのだろう。廊下のあちこちに蜘蛛の巣が張られ、あたりには埃の匂いが充満していた。建設当初は白磁のように白く輝いていたであろう壁は色褪せ、至る所にシミが残っている。木目の壁や床もところどころ削れ、めくれ上がっている。
ただ自身の歩く足音だけが反響している。こうしてみると監獄というよりまるで幽霊屋敷のようだ。この屋敷の主は一体どこにいるのだろうか。